2012年6月14日
環境コンサルタントのお兄さんと温泉卵を食べる会
6月のぽーと会は、
1.「日系アメリカ人のおじいさんから戦争体験を伺う会」
2.「環境コンサルタントのお兄さんと温泉卵を食べる会」
の2本立てです。
2番目のプログラムは、補習校の先輩で、UCバークレーで学部、大学院でエンジニアリングを学び、現在東海岸のコンサルティングファームでお仕事をされている方からお話を伺います。
「ひのてつ」の朝ごはんは、ぽーと会の企画会議でよく利用させていただいて、温泉卵が大好評です。
せっかくだから、子どもたちにも食べて欲しいと思い、(本当は自分が食べたいだけ?)ブランチ勉強会を計画しました。
$1のお皿と$2のお皿があり、どれもおいしいので、取り合わせに毎回悩みに悩むのです。
おっと、メインは食べることじゃなくて、お兄さんからお話を伺うことです。
○ UCバークレーでの生活、大学の様子
○ 音楽と勉強を両立させてきた秘訣
○ 環境の勉強って、何を勉強するのですか?
○ 日本とアメリカを行ったり来たりする中で、どうしてアメリカを生活の拠点として選びましたか?
○ コンサルティングファームのお仕事の様子
○ 東海岸って、住むのに良いところですか?
などなど、教えて頂きたいことがたくさんあります。
お話がつきなくて、昼ごはん、夕ご飯までついでに食べて帰りそうです。
ラベル:
アメリカの生活 高校生活,
アメリカの生活、大学進学準備,
大学進学勉強会
2012年6月12日
映画 「MIS」 - 人間秘密兵器 - 日本と戦った二世兵士たち
数日前に、サンディエゴで上映された、すずきじゅんいち監督作品「MIS] を家族で観てきました。この映画を劇場でみることができて、本当によかったです。
私は、映画鑑賞が趣味で、ほぼ毎週映画館に通っています。ラッキーなことに、サンディエゴにはランドマークシネマという、世界中からの厳選された映画ばかりを上映する映画館が3つもあるので、私は忙しいのです。
しかし、「MIS」は、ランドマークシネマでもめったに見られないような、桁違いに魂を揺さぶられる作品でした。
映画のホームページからの概要です。
イントロダクション
アメリカ大統領ハリートルーマンは彼らをこう表現した。
“The Human secret weapon for the U.S. Armed Forces “ (人間秘密兵器)
“The Human secret weapon for the U.S. Armed Forces “ (人間秘密兵器)
By President Harry Truman
ミリタリーインテリジェンスサービス(MIS)陸軍情報局は、主に日系人二世で構成されていた。二世兵士達は父母の祖国、日本と戦う苦悩だけでなく、アメリカ国内では人種差別と戦わねばならなかった。それでもアメリカに忠誠を誓って戦い、米軍勝利に貢献した。そして、降伏よりも死を望んでいた日本兵に自ら命をかけ、生き延びて日本の復興の為尽くすよう説得し、日本占領時には、日米の架け橋として日本再建に尽力し、アメリカのみならず日本にも多大な貢献をした部隊であった。 約3000人のMIS兵士が第二次世界大戦中に、さらにおよそ3000人が戦後の日本占領時代に活躍した。
それにもかかわらず、秘密情報部員という性格上、MISの存在自体が長い間アメリカでは極秘扱いにされた。国家のセキュリティ機密情報解除のプロセスが開始されるきっかけとなった国家機密情報などの公式公開が始まるきっかけとなった1972年のエグゼクティブオーダー11652の発令により、MISの存在も公に知られる機会を得るが、多くの元MIS兵士たちはその後も沈黙を続けた。
映画ではこの知られざる日系史を語り、戦争と平和を考え、MISの日系人たちが如何に日本とアメリカの『国』というものに翻弄されながらも、両国の為に尽くしたのか特に日本の戦後復興を助けたのかを描く。また、本作は第二次大戦時の日系史を描く長編ドキュメンタリー三部作の最終章完結版として制作される。
第一章『東洋宮武が覗いた時代』(2008年)、第二章『442 日系部隊』(2010年)は日米各地で公開され大きな話題となり、多くの観客を感動させた。
この映画は 第一章、第二章と同様に、監督はベテランのすずきじゅんいち、音楽はゴールデングローブ賞やグラミー賞受賞者の喜多郎、その他メインスタッフも、同じメンバーである。
現在、MISの元兵士たちの平均年齢は442連隊の人たちよりもはるかに高く、多くの人は90歳を越えている。今、最後の証言をとらないと、この素晴らしい活躍を語る生の声は永遠に消えてしまうだろう。我々は製作を急がねばならなかった。
MIS の中には帰米と言われる「アメリカで生まれ、日本で教育を受けた」人たちが多数いたが、彼らの苦悩は単純ではなかった。例えば、兄弟で日本に行き教育を受け、兄は学校を終えてアメリカに戻り、一方弟は日本での学校を終える前に戦争が始まり、それぞれ兄弟同士が敵国兵士として戦った人たちが少なからずいた。人によっては、昔は仲の良かった兄弟でも、戦後は口を互いにきかなくなった人たちも少なくないと言う。
この映画は、日本ではアメリカ人として差別され、アメリカではジャップと蔑まれ、しかし両国の為に尽力した彼らの人生を描くことで、「国を愛することとは何か」、「戦争の矛盾」、「人種差別の哀しみ」、そして「平和の尊さ」を訴える。
撮影はワシントンDCから始まった。ワシントンDCでは元MIS兵士であり、元アメリカ合衆国運輸長官を務めたノーマンミネタ氏をはじめ、多くの政府関係者や元MIS 兵士たちに会った。
ハワイは米文化と日本文化が共存する場所である。ハワイには多くのエネルギッシュな元二世兵士が健在している。我々はダニエルイノウエ上議員(元442兵士)、元知事のジョージアリヨシ氏(元MIS 兵士)など、多数の元二世兵士たちにインタビューした。また我々が取材したウクレレ奏者のジェイクシマブクロ氏は第二次世界大戦中の二世兵士の偉業を重んじるハワイアンの一人である。
そして日本。マグニチュード9.0の地震が日本を襲ったのは撮影隊が日本入りする2週間前であった。その被害の規模は類を見ない物であり、誰もが驚愕した。しかし世界のジャーナリスト達はこの惨状の中でも、日本人は秩序を保ちお互い協力し、助け合っている姿を見て賞賛している。そして多くの元MIS兵士は「自分たちはこれとよくにた光景を戦後の日本に見た」という。戦後日本は焼け野原となり、人々は貧しく、餓えていた。そんな中でもMIS兵士は日本人の勤勉さ、互いを思いやる心、忍耐強さを感じたのである。
日本人は懸命に働いた。MISはそんな日本人を助け、日本の復興に重要な役割を果たした。日本語を話す二世兵士が日本とアメリカの掛け橋となったのである。
サンフランシスコではプレシディオにある語学学校跡を訪問した。そこは MIS 兵士を育成する為の日本語が教えられた最初の場所である。そして、 ジュネーヴ条約に反して日本人捕虜への盗聴が行われていたという元秘密捕虜尋問センター、キャンプトレイシーをも取材した。
ロサンゼルスでは帰米であり元MIS兵士であった兄弟たちを取材した。日本に残った彼らの弟たちは日本軍に属していた。彼らは日米それぞれの兵士として兄弟同士で戦わねばならなかった。長い月日がたっても、その出来事が彼らの心に「罪悪感」という名の深い傷を残している。
全体で80人にも及ぶ関係者たちの証言を得ることができた。MISが人々に忘れ去られる前に彼らの言葉を世界に伝えなければならないという使命感からこの映画を製作したのである。
この映画の中で、帰米2世の元兵士が語られた 「自分はアメリカにいた時には日本人として扱われ、日本に行けば、アメリカ人として扱われてきました。」という言葉が印象的でした。
実際に、兄弟の中でアメリカ軍、日本軍に分かれて戦っていたというケースもあり、心が痛みます。
後からアメリカに渡ってきた私たちが、この国であまり差別をされることなく、日本人としての誇りを持ちながら生活できるのは、先人たちのご苦労があったことを忘れてはならないと、心に刻みました。
私たちぽーと会でも6月23日、日系二世のおじいさんから「一世、二世の方たちのたどってこられた歴史」「アメリカ市民であったにもかかわらず、日本の血をひく者として、収容所に入れられた経験」を伺うことになっています。
2012年6月8日
楽だ~~!!
数日前の土曜日、息子のスケジュールはいつもの如く複雑でした。
朝は、SAT サブジェクトテストが3科目、終了後補習校、放課後は運動会の準備、友達との集まりと正確な終了時間が予想できない行事がいくつももありました。
こういう時、私は、本を車に積んでは、ひたすら駐車場で息子を待ち、次の目的地に連れて行っていました。駐車場がない時は、近くの喫茶店、モールで時間をつぶしていました。そして携帯電話で、「終わったよ。迎えに来て!」の一言で、駆けつけ、次の場所まで送るのです。
「私って、なんて忠実なしもべなんだ!!」と自画自賛というより、自虐ネタになっていました。
ところが、今回は、朝お弁当を作って息子を送り出し、夕方まで息子に会うことがありませんでした。
なんと、数週間前から息子が自分で車を運転するようになったのです。ずいぶん前に免許を取っていたのですが、心配で親が助手席で監督していました。しかし、息子がどうしても自分だけで運転をしたいと主張したので、ついに自力で運転になりました。
心配は増えましたが、私の生活は劇的に楽になりました。こうやって、巣立ちの時は目にも留まらぬ速さでやってきています。
2012年5月28日
Jくんと仲間たち (6)
このセミナーで一番心を打たれたのは、Jくんと生みのお母さんとの対面でした。
長い間疎遠でしたが、本当に心温まる再会となりました。
お互い心にあるわだかまりも消え、別れ際にはハグをすることができました。3歳の時に撮って以来チャンスがなかった親子写真も今回素晴らしいものが出来上がりました。
お母さんも「今まで生きてきた中で、今日が一番幸せな日でした。もう、思い残すことはありません。」としみじみ話していました。
お母さんは働きすぎて体を壊してしまうほど、長年1人で苦労されてきましたが、息子のJ君が立派に成長し、日本人の血を引く次の世代の子どもたちに話をしてくれて、感慨無量だったそうです。
Jくんとお母さんをを少し遠くから見守るフォスターブラザー、仲間たちの姿が印象的でした。
お母さんは、帰宅してから、Jくんを愛情豊かに育ててくださった里親さんに心を込めてお礼状を書いたそうです。
お母さんから、私へのメッセージもありました。
「ずっと以前から、息子との再会、和解、そして息子を日本に連れて行くことはあきらめていました。あまりにも超えなければならないハードルが高すぎ、埋めなければならない溝が深すぎました。この機会を与えてくださり、本当にありがとうございました。私にとっては、このような日が来るなど、夢にも思っていませんでした。私は30年前、幼い子どもを抱えた、この国で使える職業的なスキルを持たない貧しいシングルマザーでした。どうしていいかわからず、いくつかの日本人コミュニティーに助けを求めましたが、誰も相手にしてくれませんでした。朝早くから夜遅くまで最低賃金で働き続けた結果、どんどん状況が悪化して、子どもも失いました。情報さえあれば、決してここまでの愚かな選択はしなかったでしょうが、当時助けてくれる友達、ネットワークもなく、真面目だけが唯一の解決策と信じ込み、働き続けました。結局、どん底にいた私を助けてくれたのは、日本人以外のコミュニティーでした。中でも一番私たちの命を救ってくれたのは、不法入国していたメキシコ人たちでした。自分たち自身も困窮を極める中、私の痛みを知り、何とか助けてやろうと奔走してくれました。ぽーと会が、これからも困っている日本人のお母さんたちと子どもたちの砦になっていただくことを、願っています。どうか、がんばってください。」とのことでした。
彼女の言葉の重さを今かみしめています。(ズシ~ン)
2012年5月26日
Jくんと仲間たち (5)
とても嬉しかったことは、お兄さん、お姉さんがみんな口を揃えて
「私たちは、みなさんをできる限りサポートしたいと思うので、いつでもコンタクトしてくださいね。」
「奨学金のこと、エッセーの書き方、なんでも質問してください。」
「インターンシップ、就職のことなら、どんな分野でも相談に乗りますよ。」
と申し出てくださったことです。
心強いメンターができて、感謝です。
親の私たちにとっても、多くを学ぶことができました。
講師の人たちは、みんな20代後半から30代前半で、素晴らしい教育を受け、各分野で現在大活躍しています。しかし、20代前半では、みんな、紆余曲折、試行錯誤を繰り返しています。大学の途中で、海外を巡ったり、みんなが羨ましがるような所に就職しても、どうもあわないと辞めて、振り出しに戻ったり、専攻を替えて、学校に入り直して、時間をかけて「自分探し」「軌道修正」を繰り返して、現在のキャリアを見つけ出してきました。
「これがぜひやってみたい。」という、ポジティブなやり方だけではなく、「数字だらけは苦手だ。でも、経済学ならやれるかも。」という消去法で、少しずつ前進してきて、結局、投資銀行でやりがいのあるキャリアを見つけた人もいます。
若いのに自信に満ち、余裕さえ感じられる皆さんの表情には、「自分自身の目で見つめ」「自分で選び取った」「自分で築き上げた」「自分で納得のできる生き様」を感じさせました。
私たち親は、日本社会で、一旦レールから外れると、それっきりフルタイムの仕事や、社会に戻るのが難しい時代に生きてきました。「自分探し」「試行錯誤」を価値あることとして、20代をゆっくり学びの時、成長の時として過ごさせてくれるアメリカ社会を有難いと思いました。
いつの日か、第二弾をしたいと思います。
2012年5月25日
Jくんと仲間たち (4)
出席していたお母さんから、「美容番長」とニックネームをつけられたCさん,
ヘア、マニキュア、メイク、ファッションを一寸の隙なくばっちり決め、デパートのメイク売り場にいるような、若くおしゃれなお姉さんです。うっとり見とれてしまう華やかさです。
話していると、大声で笑い転げ、周りがぱっと明るくなります。
彼女の本業は、有名大学院で博士号を取り、著名な賞も受賞した科学者です。今も研究所で素晴らしい研究を続けています。
彼女の開口一番は、「みなさんは、親から勉強して、いい大学に入りなさいと言われて育ったでしょ。でも、私はその真逆のことを言われて育ったのよ。勉強なんてしたって、無駄だから、家業の美容室を早く継ぐことが私に期待されたキャリアだったの。」ということでした。
彼女は、小学校の頃から美容室で働き、家族を助けてきました。大学進学も反対されましたが、ちゃんと美容室も手伝うということを約束して、ビューティースクールとWスクールで、ようやく進学することができました。「親は安定した職業だからと薦めてくれているけれど、一生ネイル磨きでは終わりたくない。」という思いが彼女を駆り立てていたそうです。
大学で学ぶ中で、サイエンスが楽しいことに気づき、彼将来科学者になりたいと思いましたが、全く自信がありませんでした。
それでも、なんとか勇気を振り絞って、その第一歩に踏み込むことができました。
研究室の周囲の人たちは、彼女より桁違いに賢く見え、自分には、居場所がないように感じました。 あからさまに、「ここは、君のような人間の来るところではない。」という人までいたそうです。
彼女のすごいところは、その環境の中でも明るく、自分を失わず、着実に力をつけていったことです。 いつのまにか、彼女を馬鹿にしていた人たちを追い越し、学会で賞まで受ける優秀な科学者になっていきました。
彼女からのメッセージは、「最初から超優秀でなくても、そこのスタートラインになんとか潜りこみ、諦めずに努力を続けていれば、必ず花が開く。」ということでした。
2012年5月23日
ぽーと会主催 アメリカ大学進学のABC
去年の今頃は、秋からシニアになる子どもを持つ親御さんのために、タイムラインとカレッジファイナンスについてのセミナーを開催しました。
夏が始まる前に、大枠でシニアの1年の流れとファイナンシャルエイド、スカラシップのことがわかってよかったと好評でした。
秋から春にかけては、「メリットスカラシップ」、「お父様から見た大学受験」「元大学アドミッションオフィサーの方からの経験談」を伺いました。
今年は、もっと初歩的な話が聞きたいと、現在小学生や中学生のお子さんをお持ちの親御さんからのリクエストがあったので、ベーシック編を開催することになりました。
講師の先生は、お子さんがこの秋、東部の私立大学に入学予定のお母さんと、ファイナンスの専門家のお二人です。
大学にはどのような種類があるのか、、大学進学の資金を早めに準備する方法、気をつけることなどを伺います。
ぽーと会は、元々高校生の親の勉強会としてスタートしましたが、最近は早めに準備を始めたい親御さんも参加され、にぎやかになってきました。
夏が始まる前に、大枠でシニアの1年の流れとファイナンシャルエイド、スカラシップのことがわかってよかったと好評でした。
秋から春にかけては、「メリットスカラシップ」、「お父様から見た大学受験」「元大学アドミッションオフィサーの方からの経験談」を伺いました。
今年は、もっと初歩的な話が聞きたいと、現在小学生や中学生のお子さんをお持ちの親御さんからのリクエストがあったので、ベーシック編を開催することになりました。
講師の先生は、お子さんがこの秋、東部の私立大学に入学予定のお母さんと、ファイナンスの専門家のお二人です。
大学にはどのような種類があるのか、、大学進学の資金を早めに準備する方法、気をつけることなどを伺います。
ぽーと会は、元々高校生の親の勉強会としてスタートしましたが、最近は早めに準備を始めたい親御さんも参加され、にぎやかになってきました。
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