2012年6月28日

おばあの手作りさーたーあんだぎー



沖縄のドーナッツ
さーたーあんだぎー



ご縁とは本当に不思議なものだと、思うことが時々あります。


昨日も、そんな日でした。

ロサンゼルスに朝10時半までに行かなければならない用事があり、交通渋滞が予想できないので、列車を使いました。

用事も無事に終わり、帰りのサンディエゴ行きの列車の中で、息子と年の違わない日本人の男の子から声をかけられました。

「なんで、私が日本人だってわかったんだろうか?」と驚きました。いまや、日本の観光地、(浅草、京都、広島)どこに行っても、日本語と英語以外の全ての言語で話しかけられるようになっているので、この日本人青年の洞察力に感動しました。

答えは、「だって、さっき携帯電話で日本語話してたでしょ。あとで電話しますって。」でした。(な~んだ)



彼の質問は、今朝日本からロサンゼルスに到着して、これからサンディエゴの友だちに会う予定にしているが、サンディエゴ駅からの乗り換えがよくわからないということでした。英語もあまり得意でないというのに、ちゃんとロサンゼルス空港からバスに乗って、ユニオン駅に到着し、切符を買い、サンディエゴ行きの特急列車に乗れているので、たいしたもんだと褒めてあげました。

私の知っている範囲で乗り換えの件に手短に答えて、後は世間話に花が咲きました。(実は、私もその日生まれて初めて、一人でアメリカの列車に乗ったので、ローカルの電車の乗り継ぎのことは全然知らなかった。)

沖縄出身と言うことで、私も息子も沖縄が大好きで、歴史の勉強のために2年前にも行った事、沖縄料理が好物であることも話しました。

青年は、78歳のおばあさんが、沖縄での激しい戦火の中、がま(洞窟)に逃げて、生き延びた話を教えてくれました。「アメリカ兵が怖いというより、日本兵の方がよほど残酷だった。」そうです。

青年は現在19歳で、工業高校を卒業後、IT企業で働いていて、おばあさんがまだ一度も飛行機に乗ったことがないので、給料をためて、おばあさんを旅行に連れて行ってあげるのが夢だと語ってくれました。

「お年よりは、元気そうに見えても、突然体調を崩されることもあるので、早くその日がくるといいね~~。」などと、いかにも、おばさんがやりそうな、おせっかいなアドバイスをしてしまいました。

青年は、私が沖縄ドーナッツさーたーあんだぎーが好きだと知ると、「食べますか?僕が出発する日の朝、祖母が揚げてくれたんです。友達にあげなさいって。まだあるから、あげます。」とくださいました。

遠慮なく頂きました。あまり甘くなくて、お店で買って食べるより、何倍もおいしいのです。

ふたりで、「おばあが、元気で生き延びてくれてよかったね~!! こんなにおいしいものも作ってくれるし。」とおばあの無事を喜びました。

「沖縄では、マヨネーズをかけて食べます。みんなびっくりするけど、本当においしいですよ。」と教えてくれました。

家に帰って、家族で「さーたーあんだぎーマヨネーズかけ」をいただきました。なんだか、とってもグルメな味がしました。「はまってしまうと、困るなあ」と、言いながらアッというまに、全部食べきってしまいました。

その話を友だちにメールですると、「わらしべ長者のようだね。」とコメントしてくれました。

その青年は、これから1週間滞在するそうです。楽しい休暇になりますように!




マヨネーズととっても合うさーたーあんだぎ

2012年6月26日

いとこのニッキーの夏休み (3)





ニッキーは、お父さんの研究室に出入りする学生、卒業生、他の先生方と話す中で、生物を学んだ先のキャリアも見聞きすることができました。

彼の考えは、

○ 生物を学んだ先、お医者になるのは、お金も時間もかかりすぎる。お医者さんの仕事は拘束時間が長く、訴訟も怖い。

○ 自分は、一生音楽も続けたいので、定時に仕事を終えて、プライベートの生活も充実させたい。

○ お父さんのような大学の先生、研究者は、仕事で会える人が限られている。

○ 薬剤師なら、大学卒業後、数年ファーマシースクールに通うだけで、安定した収入になる。

○ スーパーの薬局なら、毎日いろんな人に会えて、楽しそうだ。

○ だから、大学卒業後はファーマシースクールに行って、スーパーの薬剤師になろう。
仕事が終わったら、オーケストラで活動したい。 



お父さん、お母さんは、

○ ニーズベースのスカラシップが望めないので、州立か、メリットをかなりくれる大学に焦点を絞って、できれば家からの出費は年間1万ドル前後に押さえたい。

○ 今後、大学院に行く可能性もあるので、学部での出費は抑えて、少し貯金をしておいてやりたい。

○ ニッキーは、能力が高いようだが、今から無理をして名門と言われる大学に行かせることはしたくない。本当に優秀であれば、将来、いくらでもチャンスが向こうからやってくるはず。(お父さんの実体験かな?)

と、かねがね話しています。

去年、ニッキーの家族は、オーディションを兼ねて、大学訪問をし、ニッキーにとってどの学校が過ごしやすいか見て回りました。生物の教授にも会い、カリキュラムの確認もしたそうです。同業者ということもあり、古くからの知り合いという先生も多かったそうです。

ニッキーのお父さんの院生たちも、母校のインフォメーション集めに協力してくれたそうです。

「ファーマシースクール入学の手助けが充実している」ことが決め手になったそうです。

私たち家族にとっても、よき相談相手です。そして、ニッキーのお父さんは、「僕は、学部、大学院のアプリケーションのエッセーを何百枚、何千枚と読んできたから、色々アドバイスするよ。」と息子に申し出てくれて、ありがたいです。






2012年6月24日

いとこのニッキーの夏休み (2)



ニッキーのお父さんは、夏休みはテストのスコアを上げることよりも、学ぶ喜び、自分の頭でものを考え、プロセスを追って詰めていくことを、学ぶべきだと考えています。自分の息子に対しては、今の時期は、なるべく多くの経験を積めるようなサポートをしています。

たとえば、この夏は、ニッキーとお父さんは、最初の数週間は、研究室、実験室の掃除、資料の整理をします。顕微鏡の手入れは、特に念入りにするそうです。

時間のある時には、湖に釣りに行ったり、ニッキーのリサイタルの準備をします。もちろん、バーベキューは、買出しから、後始末まで、二人でいつも完璧にこなします。

後半は、ハワイでバケーションを兼ねて、魚の観察をするそうです。

ニッキーの家の近所の子どもたちは、大学の教職員の子どもが多いのですが、みんな同じように、ゆっくりとした夏休みを過ごしています。お金をかけずに、自然に親しみ、家族で楽しく過ごしています。

去年の夏、私たち家族は、彼らを訪ねたのですが、その中西部のゆったりとした生活に感動しました。

我々がミネソタに住んでいた時の親友のアンの家族とも通じるものがあるのですが、「とにかく、家族と一緒に過ごす時間を宝物のように思っている。」「子どもは、子どもの時に、たくさん楽しい思い出を家族と、友達と作るのが大切。」というのが、生活の基本のようです。


2012年6月20日

いとこのニッキーの夏休み (1)



息子には、ニッキーというウイスコンシン州に住む同級生の従兄弟がいます。まだ15歳ですが、飛び級をしたので、今度12年生になります。

彼のお父さんは、州立大学で生物の先生をしています。学生からの評判が大変高く、慕われています。学部の学生を教えることもあるし、博士課程の学生の指導をすることもあるそうです。

ニッキーは、お父さんのことが大好きで、子どもの頃から、大学の研究室に出入りしていました。そして、将来は、自分も生物の勉強をしようと決めました。

ニッキーは、去年ACTをほとんど勉強しないまま受け、32点をとりました。これは、全米でトップ2%にあたります。

高校の成績もよく、珍しい楽器をしているので、ちょっとがんばれば、名のある大学に入れるから頑張れと、アドバイスしてくれる人もいるらしいのですが、ニッキー自身も親も、のんびり構えています。

先日も、息子にメールを書いてきて、「僕は、もう受ける大学を決めたから。家から歩いて通えるおとうさんと同じ大学と、楽器でスカラシップをもらえるところが2つ。君と同じ大学に通えるようになると楽しいから、受けてみたら?」と名前を教えてくれました。

その2つとも、ACT32の人が受けるには、楽勝過ぎるところです。

ニッキーのお父さんは、長年、学生や、学者仲間を見てきて、学力的に背伸びをしたり、借金を背負ってまで名門大学に無理して入っても、よい結果にならないことを知っています。

特に、ポスドクでは、学費が恐ろしく高い著名私立大学で過ごし、教授が学部生を教えることなく、すべて自分たちTAに任せていることを経験して、「学生の親は、見てないから、あんなに馬鹿高い学費を払い続けるんだろう。学生を教えてるのは、僕たちだって知ったら、怒るだろうなあ。」と我が家に遊びに来ては、つぶやいていました。










2012年6月18日

最後の運動会 (涙編)



一昨日は、補習校の運動会でした。


息子は、今高校3年生なので、今年が最後です。


高校3年生は、数人を除いてみんな現地の高校を卒業したばかりです。秋から大学に入学する子ども、日本に帰国して、帰国生のための予備校に通う子どもいます。これまで長い間毎週顔を合わせていたのに(長い子どもだと11年以上)これからは、世界各地に散らばっていきます。

卒業生のお兄さん、お姉さん、現地校に専念するため辞めた元同級生たちもたくさんきてくれました。

高等部は、運動会の設営、運営、カキ氷スタンドの売り子、など多くの用事があります。働いてばかりで、あまり競技に出られないとクレームがあったので、今年から、少し競技に参加できるチャンスが増えたそうです。

どの子どもも、本当にいきいきした充実した顔でした。楽しいだけでなく、責任感、達成感、色々な思いがあるにちがいありません。

息子の同級生たちが全校紅白リレーのアンカーを務めた時は、思わず「頑張れ~~~!!!○○~~!」と全てのおかあさんたちが声を張り上げて応援していました。私も今日もまだ喉が痛いです。

先生方も涙目でした。

目が真っ赤の大人と比べ、子どもたちはあっけらかんと、

「7月○○日、渋谷で会おう!東京のみんなとも打ち合わせておくから。あとでフェースブックで確認」などという、スケールの大きな待ち合わせの約束をしています。

息子は、下級生と、「大連で会おう」という、これまた補習校らしい、待ち合わせをしています。息子は関空経由、友だちは成田経由です。

「卒業したらもう会えないかも」、「遠くに離れて、寂しい」などというコンセプトはこの子どもたちにはないのかもしれません。

先生方、事務の人たちや看護師さん、セキュリティー、カストディアン、お友だちのお父さん、お母さん、本当に多くの大人に方々にお世話になって、子どもたちは毎週補習校に通うことができました。なんてラッキーな子どもたちでしょうか!

夏休みが始まると、今度会えるのは、3月の卒業式です。





今年は、「おかん」のお弁当を頼みました。
1個12ドルです。
日陰の部分は鳥のから揚げと卵焼きです。

とってもおいしかったです。
私がお弁当を持って、お友達が撮影してくれました。







2012年6月14日

環境コンサルタントのお兄さんと温泉卵を食べる会



6月のぽーと会は、

1.「日系アメリカ人のおじいさんから戦争体験を伺う会」

2.「環境コンサルタントのお兄さんと温泉卵を食べる会」

の2本立てです。


2番目のプログラムは、補習校の先輩で、UCバークレーで学部、大学院でエンジニアリングを学び、現在東海岸のコンサルティングファームでお仕事をされている方からお話を伺います。

「ひのてつ」の朝ごはんは、ぽーと会の企画会議でよく利用させていただいて、温泉卵が大好評です。

せっかくだから、子どもたちにも食べて欲しいと思い、(本当は自分が食べたいだけ?)ブランチ勉強会を計画しました。

$1のお皿と$2のお皿があり、どれもおいしいので、取り合わせに毎回悩みに悩むのです。

おっと、メインは食べることじゃなくて、お兄さんからお話を伺うことです。


○ UCバークレーでの生活、大学の様子

○ 音楽と勉強を両立させてきた秘訣

○ 環境の勉強って、何を勉強するのですか?

○ 日本とアメリカを行ったり来たりする中で、どうしてアメリカを生活の拠点として選びましたか?

○ コンサルティングファームのお仕事の様子

○ 東海岸って、住むのに良いところですか?


などなど、教えて頂きたいことがたくさんあります。



お話がつきなくて、昼ごはん、夕ご飯までついでに食べて帰りそうです。



2012年6月12日

映画 「MIS」 - 人間秘密兵器 - 日本と戦った二世兵士たち







数日前に、サンディエゴで上映された、すずきじゅんいち監督作品「MIS] を家族で観てきました。この映画を劇場でみることができて、本当によかったです。


私は、映画鑑賞が趣味で、ほぼ毎週映画館に通っています。ラッキーなことに、サンディエゴにはランドマークシネマという、世界中からの厳選された映画ばかりを上映する映画館が3つもあるので、私は忙しいのです。

しかし、「MIS」は、ランドマークシネマでもめったに見られないような、桁違いに魂を揺さぶられる作品でした。


映画のホームページからの概要です。

イントロダクション

アメリカ大統領ハリートルーマンは彼らをこう表現した。
“The Human secret weapon for the U.S. Armed Forces “
 (人間秘密兵器)
By President Harry Truman



ミリタリーインテリジェンスサービス(MIS)陸軍情報局は、主に日系人二世で構成されていた。二世兵士達は父母の祖国、日本と戦う苦悩だけでなく、アメリカ国内では人種差別と戦わねばならなかった。それでもアメリカに忠誠を誓って戦い、米軍勝利に貢献した。そして、降伏よりも死を望んでいた日本兵に自ら命をかけ、生き延びて日本の復興の為尽くすよう説得し、日本占領時には、日米の架け橋として日本再建に尽力し、アメリカのみならず日本にも多大な貢献をした部隊であった。 3000人のMIS兵士が第二次世界大戦中に、さらにおよそ3000人が戦後の日本占領時代に活躍した。

それにもかかわらず、秘密情報部員という性格上、MISの存在自体が長い間アメリカでは極秘扱いにされた。国家のセキュリティ機密情報解除のプロセスが開始されるきっかけとなった国家機密情報などの公式公開が始まるきっかけとなった1972年のエグゼクティブオーダー11652の発令により、MISの存在も公に知られる機会を得るが、多くの元MIS兵士たちはその後も沈黙を続けた。

映画ではこの知られざる日系史を語り、戦争と平和を考え、MISの日系人たちが如何に日本とアメリカの『国』というものに翻弄されながらも、両国の為に尽くしたのか特に日本の戦後復興を助けたのかを描く。また、本作は第二次大戦時の日系史を描く長編ドキュメンタリー三部作の最終章完結版として制作される。

第一章『東洋宮武が覗いた時代』(2008年)、第二章『442 日系部隊』(2010年)は日米各地で公開され大きな話題となり、多くの観客を感動させた。

この映画は 第一章、第二章と同様に、監督はベテランのすずきじゅんいち、音楽はゴールデングローブ賞やグラミー賞受賞者の喜多郎、その他メインスタッフも、同じメンバーである。

現在、MISの元兵士たちの平均年齢は442連隊の人たちよりもはるかに高く、多くの人は90歳を越えている。今、最後の証言をとらないと、この素晴らしい活躍を語る生の声は永遠に消えてしまうだろう。我々は製作を急がねばならなかった。

MIS の中には帰米と言われる「アメリカで生まれ、日本で教育を受けた」人たちが多数いたが、彼らの苦悩は単純ではなかった。例えば、兄弟で日本に行き教育を受け、兄は学校を終えてアメリカに戻り、一方弟は日本での学校を終える前に戦争が始まり、それぞれ兄弟同士が敵国兵士として戦った人たちが少なからずいた。人によっては、昔は仲の良かった兄弟でも、戦後は口を互いにきかなくなった人たちも少なくないと言う。

この映画は、日本ではアメリカ人として差別され、アメリカではジャップと蔑まれ、しかし両国の為に尽力した彼らの人生を描くことで、「国を愛することとは何か」、「戦争の矛盾」、「人種差別の哀しみ」、そして「平和の尊さ」を訴える。

撮影はワシントンDCから始まった。ワシントンDCでは元MIS兵士であり、元アメリカ合衆国運輸長官を務めたノーマンミネタ氏をはじめ、多くの政府関係者や元MIS 兵士たちに会った。

ハワイは米文化と日本文化が共存する場所である。ハワイには多くのエネルギッシュな元二世兵士が健在している。我々はダニエルイノウエ上議員(元442兵士)、元知事のジョージアリヨシ氏(MIS 兵士)など、多数の元二世兵士たちにインタビューした。また我々が取材したウクレレ奏者のジェイクシマブクロ氏は第二次世界大戦中の二世兵士の偉業を重んじるハワイアンの一人である。

そして日本。マグニチュード9.0の地震が日本を襲ったのは撮影隊が日本入りする2週間前であった。その被害の規模は類を見ない物であり、誰もが驚愕した。しかし世界のジャーナリスト達はこの惨状の中でも、日本人は秩序を保ちお互い協力し、助け合っている姿を見て賞賛している。そして多くの元MIS兵士は「自分たちはこれとよくにた光景を戦後の日本に見た」という。戦後日本は焼け野原となり、人々は貧しく、餓えていた。そんな中でもMIS兵士は日本人の勤勉さ、互いを思いやる心、忍耐強さを感じたのである。

日本人は懸命に働いた。MISはそんな日本人を助け、日本の復興に重要な役割を果たした。日本語を話す二世兵士が日本とアメリカの掛け橋となったのである。

サンフランシスコではプレシディオにある語学学校跡を訪問した。そこは MIS 兵士を育成する為の日本語が教えられた最初の場所である。そして、 ジュネーヴ条約に反して日本人捕虜への盗聴が行われていたという元秘密捕虜尋問センター、キャンプトレイシーをも取材した。

ロサンゼルスでは帰米であり元MIS兵士であった兄弟たちを取材した。日本に残った彼らの弟たちは日本軍に属していた。彼らは日米それぞれの兵士として兄弟同士で戦わねばならなかった。長い月日がたっても、その出来事が彼らの心に「罪悪感」という名の深い傷を残している。

全体で80人にも及ぶ関係者たちの証言を得ることができた。MISが人々に忘れ去られる前に彼らの言葉を世界に伝えなければならないという使命感からこの映画を製作したのである。








この映画の中で、帰米2世の元兵士が語られた 「自分はアメリカにいた時には日本人として扱われ、日本に行けば、アメリカ人として扱われてきました。」という言葉が印象的でした。

実際に、兄弟の中でアメリカ軍、日本軍に分かれて戦っていたというケースもあり、心が痛みます。

後からアメリカに渡ってきた私たちが、この国であまり差別をされることなく、日本人としての誇りを持ちながら生活できるのは、先人たちのご苦労があったことを忘れてはならないと、心に刻みました。

私たちぽーと会でも6月23日、日系二世のおじいさんから「一世、二世の方たちのたどってこられた歴史」「アメリカ市民であったにもかかわらず、日本の血をひく者として、収容所に入れられた経験」を伺うことになっています。




2012年6月8日

楽だ~~!!




数日前の土曜日、息子のスケジュールはいつもの如く複雑でした。

朝は、SAT サブジェクトテストが3科目、終了後補習校、放課後は運動会の準備、友達との集まりと正確な終了時間が予想できない行事がいくつももありました。

こういう時、私は、本を車に積んでは、ひたすら駐車場で息子を待ち、次の目的地に連れて行っていました。駐車場がない時は、近くの喫茶店、モールで時間をつぶしていました。そして携帯電話で、「終わったよ。迎えに来て!」の一言で、駆けつけ、次の場所まで送るのです。

「私って、なんて忠実なしもべなんだ!!」と自画自賛というより、自虐ネタになっていました。

ところが、今回は、朝お弁当を作って息子を送り出し、夕方まで息子に会うことがありませんでした。

なんと、数週間前から息子が自分で車を運転するようになったのです。ずいぶん前に免許を取っていたのですが、心配で親が助手席で監督していました。しかし、息子がどうしても自分だけで運転をしたいと主張したので、ついに自力で運転になりました。

心配は増えましたが、私の生活は劇的に楽になりました。こうやって、巣立ちの時は目にも留まらぬ速さでやってきています。